モータースポーツジャーナリストでありF-1 解説者の今宮 純 氏が亡くなった。
享年70歳。
F-1 日本GPが再び鈴鹿で開催され、フジTVで放送された1987年に初めて今宮氏をTVで拝見した。
ご冥福をお祈りするとともに少し思い出にふけってみようと思う。
今宮 純 がいなかったら当時のF-1 ブームはなかったかも
1987年日本に再びF-1がやってきた。
1976年・77年と富士スピードウェイで初開催され、その10年後に今度は鈴鹿で日本GPが開催された。
話題は鈴鹿での開催だけではなく、フジTVが全戦中継するという。
F-1をモータースポーツ雑誌でしか知らないモータースポーツファンは歓喜した。
写真でしか見たことが無いマシンやドライバーを生で見ることができ、しかも全戦TVで観戦することができる。
まさに夢のような出来事。
鈴鹿はF-1のために前年はほぼクローズ
私が鈴鹿を走ったのは1985年が最後。
当時、通ってたショップの走行会だった。
翌年の1986年は大きなレース以外は鈴鹿はコースを開放しなかった。
これは1987年に開催されるF-1GPのためにコースを傷めないためとドライバーの保護だった。
1986年以降、毎年開催されるF-1のために一般の走行会を制限してほぼクローズ状態にしてた。
コースを傷めないという理由のほかに、ドライバーの保護という意味もあった。
当時の鈴鹿サーキットのエスケープゾーン(退避ゾーン)は芝だったり土だったりしてたわけだが、これを全部砂に変えた。
高速でコースアウトしたF-1を早く止めるには、埋まっていくほどの抵抗が必要。
車高が極端に低いF-1 は砂をかき分けながら徐々に埋まって速度を落とすが、一般の車両などは砂にホイールをひっかけて横転する。
そのために一般開放は見送られた経緯がある。
私が走ってた時もオフィシャルからこう言われた。
『高速でコースアウトすると間違いなく横転します。 コースアウトしないでください』
1987年4月12日 今宮 純 フジTVデビュー
日本で初めて全戦中継される1987年4月12日に日本の多くの人が今宮 純氏を知ることになる。
場所はブラジルGPのリオ・デ・ジャネイロ。
TVの前の今宮氏の緊張と、私たち視聴者の緊張と期待は最高潮だった。
それまでF-1 を知らない人も、世界的なイベントであるF-1 に少しだけ興味を持ち今までTVで自動車レースなど放送されることが無かったのにもかかわらず、深夜のF-1中継の視聴率はかなりすごかった。
私たちモータースポーツファンは、雑誌で得た知識、実際に見るTVでのフォーミュラの走りと 今宮氏の的確な解説で約2時間TVにくぎ付けになった。
今宮氏はできるだけわかりやすい解説を、専門用語も交え初めて見た人でもわかる解説をするスペシャリスト。
彼の解説が無ければF-1レースはわからない人が多かったと思う。
トラブルでピットに入ったマシンを、ピットレポーターの川井氏から状況を聞き今宮氏の見解でマシントラブルの状況も解説してくれた。
【ミッショントラブル】と言っても、モータースポーツファンならわかるが多くの人は何だか分からない。
「変速機のギヤが壊れた」「エンジンと連結させるクラッチが壊れた」
川井氏が「電気系統の故障のようです」というと今宮氏は「エンジンをコントロールしているコンピューターの故障だと思う」など、あくまでも今宮氏の想像だが解説してくれたのを覚えている。
F-1 ドライバーからも信頼されてた今宮氏
F-1ドライバーからも信頼されていたのも今宮氏の思い出だ。
ティエリー・ブーツェンというベルギーの選手がとにかく印象に残っている。
今宮氏にとって ブーツェン は「ブーちゃん」が呼び名らしい。
当時ベネトンフォーミュラのドライバーだったブーツェンの解説は「ブーちゃん」だった(笑)
予選で結果が思わしくなくて不機嫌な選手も今宮氏のインタビューには怒りながら答えてたり、セナとプロストの確執についても本人たちに直撃したのは衝撃的だった。
実は今宮氏にあったことがある
当時のF-1開催日の鈴鹿は開催日から24時間オープンで、レース場以外にはボーリング場横のゲートから自由に出入りできた。
私は入手困難だったチケットを買い、会社も休んで鈴鹿に通った。
当時は名古屋に住んでたので、鈴はサーキットは庭のようなものだ。
その日のレースが終わると、ドライバーたちは鈴鹿の夜に繰り出す。
ゲルハルト・ベルガーは両脇にきれいなおねーさんを連れて鈴鹿の繁華街に消えていったし、ドライバーの数人はボーリング場で遊んでた。
ベネトンのメカニックは、サーキット遊園地のゲームコーナーで大はしゃぎとかF-1を身近に感じることができた。
実はアラン・プロストとぶつかりそうになったこともある。
サーキットの曲がり角で出合い頭にぶつかりそうになったのがプロストだった(笑)
ドライバーに会うためにウロウロしてた私だったが、ボーリング場の横でやたら背の高い日本人が外人さんと話してるのを見つけた。
それが今宮氏だった。
TVで見るよりはるかに長身で、きゃしゃな体つきだったので余計に背が高く見えたのを覚えている。
F-1ドライバーを探してる私としては、おまけのような存在だったために、ただ挨拶して一言二言言葉を交わし握手してもらった。
今思えばサインをもらっておけばよかったと思う。
衝撃のサンマリノGP アイルトン・セナ・ダ・シルバの死
私の中でF-1 が終わったのが1994年のイタリアのイモラサーキットで行われた【サンマリノGP】だ。
タンブレロというコーナーでウイリアムズのマシンがクラッシュして大破した。
ドライバーはアイルトン・セナ。
ほぼ減速せずコンクリートにぶつかって行くセナ。
セナがクラッシュするなんて今まで多くはなかったので衝撃的なシーンだったが、F-1マシンは外観で見るよりドライバーを保護する能力は高いので、骨折などはあるだろうがまさか命まで失うとはその時誰も思ってなかった。
レッドフラッグでレースは中断。
中継も途切れた。
しばらくしてTVに映し出された映像は今でも忘れない。
嗚咽で声にならない今宮氏。
言葉が出ずにただひたすら涙を流す彼を見て状況は理解できた。
一言『セナが先ほど亡くなりました』と。
1987年から見続けたF-1も当時のスター選手がいなくなって世代交代しようとしたときのセナの死で私もF-1を見ることがなくなった。
セナの死はそれほど衝撃的だった。
今宮氏はこの時『それでもF-1は続いていく』と。
サンマリノで見た今宮氏から26年
今度は今宮氏が逝ってしまった。
サンマリノからF-1 を見なくなって、今宮氏のことも見ることが無かったが何年か前にネットで久しぶりに画像を拝見した。
『年取ったなぁ。でも体系は変わってないなぁ』と思った。
その彼が先日亡くなったということを知ったのは、今宮氏のご友人がTwitterで訃報を報告されていたのを見た時だ。
『今宮純が亡くなりました』と写真と共にあげられたTwitterで文面では『同姓同名』だろうと思ったが画像でF-1解説者の今宮氏だと分かった時は本当に残念な気持ちでいっぱい。
1987年からレースシーズンに入ると2週間に1度は彼の解説でTV中継を見ていたことが懐かしい。
1987年ブラジルからサンマリノまでのTV中継はビデオに撮ってあるはず。
ビデオテープなので再生できるかどうかわからないが、捨てずに消さずにとってある。
今は思い出だけで今宮 純氏 を偲ぼうと思う。
またいつかビデオの中で今宮氏に会えるのを楽しみにして、今宮氏のご冥福を心から祈ります。
お疲れさまでした。
楽しい解説をありがとうございました。
合掌
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